微加熱、瞬間加熱

2013/05/24 0:45 に 松本リサ が投稿
カツオのたたきで代表される料理で、生、刺し身で食べられるものを、極くわずか加熱するものだ。この調理で、素材の美味さが全く変わったり増大する。

 

日本橋のデパートの向かいの路地を入り、更に右に入ると道はまた狭くなり、その先を左に入るとますます狭くなり、もう無いだろうと思ったら店の裏口に入るような路地があり、入るとやっと右側に目的の古くからの寿司屋にたどり着く。路地の路地の路地の路地だ。私はどうして路地が好きなんだろう。

この店でポツポツと食べながら飲んでいると、目の前に刺し身用のサク程度の形だが、色が真っ黒、多分以前は赤だったような名残がわずかにあるが、ほとんど黒い塊がある。これは何かと気になりながら、聞くとびっくりが無くなってしまうので我慢し、いつまでも来ないでどっかに持っていってしまわれたら未練が残るしと、不安と期待のまましばらくしたら、江戸時代から抜け出てきたような店主の手がそのブロックに伸びた。

店主の包丁は、白木の気持ち良いまな板上のブロックから、一口大の切り身を、8切れ、四人分切り出した。二切れの黒い切り身が目の前に置かれた途端飛びつこうとしたが、まだ正体がわからない。今まで全てのつまみに店主は魅力的で愛情のあるコメントを言っているので、まだ手を出してはいけない。店主の話し出すタイミングは料理を美味しくゆったり食べるテンポに合っているので、こちらから乱暴に質問してはいけない。

質問が咽まで出かかったとき、店主は言った「これは大間のマグロの漬け(づけ)です」

青森県北端の海峡で捕れる大間のマグロというのは、最高級で有名で、捕ってから消費地に着くまでの品質管理も徹底しており、その丁寧さにどんなプロも頭を下げる。例えば丸のマグロを箱に氷詰めにするが、大間のマグロは横にしないで、仰向けになるように下敷きになる氷を調えて寝かせる。こうすると血が偏らないで、全身がもっとも良い状態で運ぶことが出来るのだ。

このマグロをサクにしたあと、この店では数秒湯引きにし、漬けだれにつけ、36時間冷蔵庫で寝かせる。そうするとこの黒いブロックになるのだ。瞬間加熱のあとの漬けになる。

では食べようかと震える手で箸を持とうとすると、主人は「これは辛子で食べてください」と、一練りの辛子を切り身の横に置いた。「江戸時代は、ワサビなどは殿様の高級品で、庶民はこうやって食べたんです」という。今ではほとんど聞けない由緒正しい江戸弁でこんな言葉をかけられたら、後ろの扉から銭形平次か鬼平が十手を差してぶらっと入ってきそうだ。

赤身なのだが、わずかな弾力性が出て、つややかな舌触り。香り高い漬けだれに和辛子が刺激を加えている。私のオヤジ側の数代先の先祖は神田ニコライ堂の棟梁の一人だと聞いたが、こんな漬けを食べていたんだろうか、ああ、ニッポン人で、江戸っ子で良かった。

 

私の行きつけの吉祥寺の寿司屋では、鳥貝はそのままでなく、ぬるま湯にほんの少し付ける。煮えるまでではなく、透明な状態で上がるように、というよりも生と同じ状態におさまる程度のちょっと付けだ。「風呂の温度ぐらいかなぁ〜、ほんの少しの時間だけど」と、この主人は温度も時間ももちろん職人感覚で、教えたくないのではなく、数値で言えないのだ、こういうのは大好きだ(私の仕事上はそうは行かないが)。これをビシッと閉めるとつまみでも握りでも元気に飛び跳ねて出て来て、鮮度がかえって上がるようにも感じる。微加熱。

イクラはスジコをほぐしたものだが、きれいに美味しくほぐすには、これもぬるま湯に少し浸け、網の上に乗せて転がすと、ぼろぼろとイクラ粒になって落ちていく。湯温が高ければ煮えて白っぽくなってしまうし、低ければ上手く外れない、美味しさと品質の微妙な境目がこの微加熱なのだ。

枝豆もそら豆も茹で加減は難しい、加熱しすぎればぐちゃっとなってしまうし、少し足りないと硬すぎる。食べる人によっても好みがあるから、うるさい人向けには大変だ。良いカリフラワーは、さっと茹でると美味しさは更に増す、大きくカットしてしまうと熱が通るのに時間がかかるからだれて仕上がってしまうし、小さすぎるとオーバーになってしまって中心の生パリパリが無くなってしまう。適切なカットをして、グラグラの湯に入れ、再び煮立って「〜ん!」というところで上げ、うまくいったら幸福だ。これらは瞬間加熱。

 

毎月行く米澤の牛肉の生産と加工をやっている会社の社長宅でバーベキューパーティーをやろうということになった。庭には炭が熾きていて、レンガを二つ置いて少し高めの位置に網が乗っている。炭は1時間ほど前に熾したようで、既に火は落ち着き、陽も落ち始め、焼き始めどき。正真正銘米澤牛のタンが1本丸ごと乗せられた。炭火は遠火の強火なので、安定してパリッと焼ける。タンブロックを回しながら10分ほど焼いてタタキ状態にしたあと表面の粗熱が去った頃スライスし、大皿に広げて、エベレストのふもとで採ったという硬さたっぷりの岩塩を金槌でたたきつぶして遠くから乱暴にふりかけ、テーブルの真ん中に置いたら、ハイエナのように皆飛びついた。表面が炭火で固まっているので、中の肉汁が閉じこめられ、実にジューシー。鮮度の良いタンのフレーバーが厚切りスライスなので口内にみっちりと詰め込まれる。タンの豪快タタキは、瞬間加熱の類いか。

瞬間加熱や微加熱は、加工食品には難しいが、調理提案としてはいかがでしょうか?
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